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「めぐる輪」の中で生きる
菅原由美子
アメリカのアリゾナ州で、一九九一年から二年間、人工的なミニ地球を作り、その中で生活するという実験が行われた。実際にミニ地球で暮らしながらデータを集め、本物の地球環境を研究していく参考にしようというものである。
このミニ地球は、「本当の地球」の条件になるべく近づけて作られた。ここで暮らす人たちは、すべての食べ物をこの中で育てなければならない。し尿や生ごみは栄養分として土に返さなければ、土はやせおとろえてしまう。農薬や化学肥料を使えば、それを含んだ水は必ず自分たちの体にもどり、害を及ぼすことになる。ここでは、すべてがめぐりめぐっている。自然の「めぐる輪」と呼ぶべきつながりを、常に意識して行動せざるを得ないのだ。
今、私たちの地球では、自分たちの行動が環境に及ぼす影響を実感できる機会はほとんどなく、自然の「めぐる輪」の中で生活をとらえることは難しい。そのため、環境をいためる原因となる物質を平気で廃棄したり、し尿やごみを不要物として焼却したりすることが行われている。それは、自然の「めぐる輪」を自らの手で断ち切ってしまう行為にほかならない。
だが、ミニ地球では、自分の行為はすぐに結果となって自分自身へとはね返ってくる。そのため、自分たちが環境に対して与える影響を常に意識して、一つ一つの行動を選び取ることが必要とされる。
この実験は、自然の「めぐる輪」の仕組みを理解するにとどまらず、「本当の地球」の中で生きることを学ぶ絶好の機会といえるだろう。
この「めぐる輪」のつながりを、実生活の中で生かそうとする取り組みが、日本各地で進められようとしている。
人口七千四百人の小さな町、宮崎県綾町は、町の憲章に中に、「自然の生態系を生かし、育てる町にしよう。」という言葉をかかげた。化学肥料や農薬をやめ、土などの自然状態を取りもどし、健康を保ちながら安全な農業を進めようという決まりを、全国ではじめて作ったのである。その一環として、生ごみや人間と家畜のし尿を、肥料として土に返していくというリサイクル運動が進められている。
また三万三千人の市民が暮らす山形県長井市では、「生ごみの堆肥化」の計画が進められている。各家庭の台所ごみから堆肥を作り、利用しようというのである。この堆肥を使い、さらに、農薬や化学肥料を使わない農家の作物には、市が認めた「レインボープラン農産物認証」の表示を付けることが許される。地域の人たちも、その品質と安全性を信頼し、進んでそりを買い求めていく。生ごみを堆肥として使うためには、ごみを捨てる人たちの協力が大切だ。特に大勢の人がかかわる場合にはごみの分別が重要である。長井市では、生ごみを集めても、全市で空き缶が二、三個入っているくらいだという。住民一人一人が自覚と責任感を持って、この取り組みに参加している証拠といえるだろう。
綾町や長井市の取り組みは、ただ「もったいないから、生ごみやし尿をリサイクルする。」という考えから行われているのではない。農薬や化学肥料を使わずに、自分たちの出した生ごみを肥料として生かしながら、土地の健康をはぐくんでいく。その根底には、自然の「めぐる輪」を生かしながら、住民一人一人が力をあわせ、自分たちの暮らしている街の土を守り、農業を守り、環境そのものを守っていこうとする思いがある。
何十万、何百万もの人が住む大都会では、自分たちの生活と土や環境全体とのつながりを実感していくことは難しい。だが、たくさん食べ、たくさん残し、たくさんのごみを生み出している大都会でこそ、そのことを真剣に考えていく必要がある。
東京都北区では、給食の残飯として出される生ごみを、堆肥に加工していくとりくみが進んでいる。この取り組みは、ごみの量を減らすことを主な狙いとして始められ、区内のすべての公立小・中学校に残飯を堆肥へと作り変えていく設備が備えられた。区内全体で、一日あたりに出される給食の残飯は1.8トンに及ぶが、堆肥に加工することで0.5トンにまで減らされる。もちろん生ごみから作りだされた肥料は、実際に活用される。それぞれの学校で使われたり、区民に分けられたりするのだが、その大部分は群馬県の農家へと渡される。そして、その農家が育った野菜は、北区の学校給食に使われたり、区民のお祭りに販売されたりしている。
つまり、北区の小・中学生たちは、自分たちの残した給食から肥料を作り、その肥料で作られた野菜を再び口にする体験をしていることになる。この取り組みは、自然の「めぐる輪」と自分たち自身のかかわりに気づいていくきっかけとして、大きな意味を持つものといえる。
まず、自分たちの生活が生み出すごみを出発点として、「めぐる輪」のつながりを見つめていくこと。それは、「本当の地球」という大きな環境全体との関連を考えながら、わたしたちの食べ方、暮らし方、考え方を見つめなおしていくための第一歩といえるだろう。