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[单词问题]请教关于“终于”的几种用法的区别 [复制链接]

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离线wuzuniao2003
 
只看楼主 倒序阅读 使用道具 楼主  发表于: 2010-12-19
如题   とうとう やっと ようやく等关于“终于”的用法的区别  谢谢各位了
离线青岛

只看该作者 沙发  发表于: 2010-12-26
「やっと」「ようやく」「ついに」「とうとう」の意味分析
  
1 研究動機
 
類義語として扱われるこの四つの副詞は、先行研究から二つの共通点を持つことが分る。まずは、ある事態の実現までに長い時間がかかるという共通の特徴である 。

(1)個展の話は2年前からありましたが、大学院で日本画の保存修復技術を学んでいたため、﹛やっと∕ようやく∕ついに∕とうとう﹜実現しました。         (毎日新聞96.1.20)
(2)日本では通産省主導で昨年、電機、電力などの企業でつくる「CALS技術研究組合」と「CALS推進協議会」が発足、﹛ようやく∕やっと∕ついに∕とうとう﹜実用化に向けて動き出している。
(3)住民の悲願だった橋が﹛ついに∕やっと∕ようやく∕とうとう﹜完成した。

以上の例では、この四語の副詞はお互いに入れ替えても、出来事の実現まで長い時間が経ったという意味は変わらないと思われる。もう一つの共通の特徴は、出来事の実現までの苦労や大変さをこめる感情である 。例えば、広瀬(1994)は次のような例を挙げている。

  (4)急な山道を歩き続けて、やっと頂上に着いた。
(5)彼は20年研究して、とうとうがんに効く薬を作り上げた。
(6)人類はついに宇宙にまで行くようになった。

以上の説明から、この四つの副詞には共通の特徴を持つことが分る。しかし、以下のような同じ文に二つの表現が同時に使われる例もある。

(7)だが、弥之助は少年時代から読書が好きでどうかして東京へ出たいと思った、十四の時やっと小学校を終えると無理矢理に東京へ出て、それから有《あら》ゆる苦しみをしてとうとうそれ以上の学校へは入ることが出来なかったが、そのうち独力で或る一つの発明をして、それが世間に喧伝されその発明が世界的の発明であるというような意味から彼自身もパテントによって相当の産をなして今はその郷里のこの新館に来ている、まだ隠居という年ではないし、東京にも相当の根拠地を持ってはいるけれども目下の処は斯うして植民地に来ていることが多い。                   
(8)長崎の母に電話をかけました。やっと母の声がして「もしもし、あれ聞こえない」「もしもし、お母さん私よ」「えッ、もしもし聞こえないよ」と母の大きな声。とうとう耳が遠くなったのかと思っていたら「あッ、さかさまだわ」と母の声がしました。 
(9)高島屋の商法違反事件は29日、ついに経営トップの一角の楠美宏・元専務(67)と、財務の最高責任者の中谷正司・取締役財務部長(57)に波及した。田中辰郎新社長は、暴力団組長を「(日高啓社長らは)裏の総務担当者と認識していた」とようやく認め、捜査は「企業と闇(やみ)社会の癒着構造」解明に向けて新たな段階に入った。(毎日新聞96.6.30)

以上の例では、文脈における二つの副詞が相互に入れ替えられないので、それぞれ異なった意味特徴を持っているのではないかと考えられる。本研究は、この四つの副詞は文脈において、どんな意味特徴を持つか、その共通点と相違点を検討し、この四つの副詞によって話し手の気持ちや態度がどのように表されるかについて考察していきたい。

2 研究方法
 
毎日新聞電子版1996年~2005年分と青空文庫にある文学作品20部ぐらいを使って、この四語の副詞の含む文を抽出し、分析する。これらの例文から「やっと」「ようやく」「ついに」「とうとう」のそれぞれの意味特徴を観察し、分類していく。

3 先行研究
 
国広他(1982)では、この四語の副詞の使い分けについて以下のように説明をしている。

(10)石油も﹛ついに∕とうとう∕*やっと∕*ようやく﹜手に入らなかった。
(11)隣の家の工事が終わって﹛やっと∕ようやく∕*とうとう∕*ついに﹜
静かになった。                     
この四語の使い分けについて、国広他(1982)は、「やっと」「ようやく」はその事態(状態)が話し手にとって望ましいという特徴を共有すると述べている。「ついに」「とうとう」はこの点についての制限はない。また、「やっと」と「ようやく」には、事態や状態の実現が期待されているが、その実現が困難であるという前提を持つのに対し、「ついに」「とうとう」はこの点について積極的な特徴を持たないと述べている 。もう一つの用法の違いについては、国広他(1982)は次の例を挙げている。

  (12)『資本論』全三巻のうち﹛やっと∕ようやく∕*ついに∕*ようやく﹜第一巻の半分まで読み終わった。
  (13)審判の判定に対する抗議から、﹛ついに∕とうとう∕*やっと∕*ようやく﹜放棄試合になった。

国広(1982)は「ついに」と「とうとう」の実現した事態や状態は、普通には実現しないと考えられることであると述べている 。つまり、話し手にとって「ついに」と「とうとう」が使える事態や状態は尋常なことではないという意味を指し示すのである。したがって、例(12)は半分まで読むことは通常に実現し、尋常なことなので、「ついに」と「とうとう」と共起することができない。これに対し、「やっと」と「ようやく」は話し手の望ましい気持ちを表すので、例(13)では使えない。
一方、ルチラ(2005)では、これらの副詞は事態の成立する前に話し手がその実現を予想するものとして使うと述べている 。例えば、例(15)には、嵐が止むことに話し手が期待しているというニューアンスがあるとしている。

  (14)夜が白み始めた頃、嵐はやっと止みました。    
  (15)三日目の朝、激しい汗で熱はようやく治った。  
  (16)宮村健によびとめられた加藤は、はっとした。とうとうその日が来たなと思った。

ルチラ(2005)は、この四語を事態の成立に対する、期待性や予想性のあるかどうか、その事態を達成するまでの過程或いは結果に視点を置くのかによってその使い分けを観察し、下位分類をしている。四つの副詞はお互いに言い換えられる場合も可能が、その意味解釈は多少変わることが分かる。例えば、(17)の例では、「やっと」を使って、その待ち望んでいた気持ちを表す。「やっと」を「ようやく」に変えると、その期待する気持ちは変わらないが、「ようやく」の方はウエイトレスが来るまでの時間の過程に注目することになる。また、「ついに」に入れ替えると、期待ではなく、予想の通りに実現されたニュアンスになる。「とうとう」に入れ替えると、その実現の最終局面に視点を置くことになるとしている。

  (17)つまらなそうな顔をしたウエイトレスがやっと来た。
 さらに、金英児(2006)は、「やっと」と「ようやく」の意味と用法について以下のように述べている。「やっと」‧「ようやく」の共通点として、待っていたり、望んでいたことが時間や手間をかけて実現することを表すので、実現しなかったことや否定的な内容、或いは相手の行為には用いない 。二つの副詞の差について、金英児(2006)では次のように述べている。例(18)では主体側に重点が置かれる場合、「やっと」は主体がある物事に最大の努力をし、困難を乗り越えて実現することを表すが、「ようやく」は主体の努力と共に時間がかかって困難を次々乗り越えるという時間の経過性が出てくる 。例(19)では、対象側に重点が置かれる場合、「やっと」は待ち望んでいたことへの実現であって、「ようやく」は希望性が弱く、自然推移的な事態の成立を表す 。

  (18)﹛やっと∕ようやく﹜論文を完成した。
  (19)﹛やっと∕ようやく﹜春の日が暮れた。

また、金英児(2006)によれば、ぎりぎりという限度を表す場合、二つの副詞は例(21)のように入れ替えられない。「やっと」はぎりぎりのところで実現するという限度性を持ち、それによって実現に焦点があるが、「ようやく」には限度性がなく、実現に向かって段々と、なっていくことを表す漸次性があり、実現まで時間が経過し、変化する過程に焦点がある 。

(20)大学に﹝やっと∕ようやく﹞合格した。  
(21)60点で﹛やっと∕*ようやく﹜合格した。

 一方、山本(2007)では、「ついに」と「とうとう」の意味機能を、認知言語学の面から述べられている。両者を動機付けるスキーマが、事態実現の想定地点、事態実現の確定地点を到達点、その間のメンタルパス及び時間経過を経路とする、全く同一の起点、経路、到達点スキーマであることによる 。しかし、二つの副詞は、焦点化される部分の違いによって、意味の差が見られるとしている。山本(2007)は、「ついに」は、到達点が焦点化される。焦点化されることにより、事態が事態を起こすエネルギーを帯び、事態連鎖の始まりを示す役目を果たす。一方、エネルギーを帯びていない「とうとう」では、ただ経路のみが焦点化されることになると述べている 。つまり、「ついに」は事態実現の結果に注目し、「とうとう」は事態が実現するまでの過程を焦点とすることである。

4 問題提起

ルチラ(2005)では、話し手が出来事の実現に対する「待ち望んでいた」「かろうじて実現した」「実現の遅かった」の気持ちを示すのは「やっと」の意味特徴であると述べている。

  (22)三日降り続いてた雨がやっとやみました。
  (23)顎をひき、胃の上に手をあてがって、やっと吐き気をこらえた。
  (24)宮村健は、その時やっと顔を上げた。悲しげな顔をしていた。 

しかし、次の例が示すように、よくない結果になることを表すので、「待ち望んでいた」「かろうじて実現した」「実現の遅かった」の気持ちは言いにくいのである。予想しなかった結果になる驚き、びっくりする気持ちが込められる。

  (25)入り口付近で座り込んでたばこを吸っている若者がおり、屈強な壮年が何度も注意し、やっと下車させたことがあった。また、通勤ラッシュの少し前、中学生か高校生の下校で7、8人乗り込んできて、まるで学校の校庭さながらに大声で談笑するわ、つり革で体操めいたことを始めるわと、やりたい放題である。          (毎日新聞‘00.5.3)
  (26)だが、中学時代を知る同級生は違う面を見ていた。ある時、ささいなきっかけで同級生に学校で突然、殴りかかり、数人でやっと取り押さえたことがあった。(毎日新聞‘00.5.4)
  (27)連勝がやっと止まったな。ピッチャーは頑張ったから責められないな。出直しや。
      (毎日新聞‘00.5.24)

「やっと」のように、事態の実現に至るまで長い時間がかかることや事態が予想と期待の通りに実現したかどうかに関わるこれらの副詞は、話し手或いは主語の主観的な態度や評価も表現できる。しかし、話し手の心的態度から、これらの副詞を論じる研究が十分とは言えない。したがって、本研究は、各文を発話した時の話し手の心的態度‧気持ちの叙述を表すモダリティという視点から四語の副詞を分析したい。
続いて、「ようやく」は出来事の実現に対して、話し手が納得できる気持ちを示す。
  
(28)四年連続で“ゼロ成長”が続く日本経済。政府の経済対策などがようやく効き始め、関西の財界人も「景気は緩やかな回復基調をたどる」と、昨年より表情は明るい。               (毎日新聞96.1.5)
  (29)街並みの復興とともに被災者たちが、次々に立ち上がるきっかけをつかみかけている。多くの命と平穏な生活を一瞬にして奪い去った阪神大震災から十七日で一年。営業停止していた灘の酒蔵や元町のバーがようやく再建。

一方、「ついに」は次の例が示すように、話し手のある事態に対する不満の気持ちが込められる。

  (30)中国はこれを威嚇と受け止めた。中国筋は「米国がついに覇権主義をむき出しにした。あれが本音だ」と険しい表情を見せた。台湾を脅しているだけに、他国からの威嚇にも敏感だ。
  (31)国による私有地の不法占拠がついに実現してしまった。沖縄県読谷村の米軍楚辺通信所用地の一部236平方メートルである。違法ではないという国の主張はどこからみても苦しい。

(30)の「覇権主義をむき出すこと」と(31)の「実現すること」は話し手にとって望ましいことではないので、「ついに」を「やっと」「ようやく」に言い換えられると不自然になる。最後、次の例が示すように、「とうとう」はある事態の発生に対して、話し手が残念や絶望的な気持ちを表す。

  
  (32)とうとう臓器移植法が成立した。臓器を提供する場合に限ってという条件付きではあるが、脳死を人の死とすることに反対の私にはショックなニュースであった。
  (33)洋の東西を問わず、財政再建のことわざがある。「まず景気を良くして税収を上げる」というものだ。だが、いまの財政はとうとうこのルールまでが機能しなくなりつつある。

このように、これらの副詞は、話者のある出来事に対する心的態度と関連していることが分る。用例をさらに検証し、話者の出来事に対する心的態度という観点からこれらの副詞の共通点と相違点を明らかにしていきたい。

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