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徳川家康連載最後 [复制链接]

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离线waclj2006
 
只看楼主 倒序阅读 使用道具 楼主  发表于: 2008-10-27
   徳川家康について
                 東京大学助教授
                文学博士 奥野高広
  徳川家康の一生は、重い荷を負い、遠い道を行く旅人の姿にたとえられる。七十四年間の絶え間のない隠忍と努力との手堅い歩みは、徳川幕府の確立を目指し続けられたのであった。
  その忍苦ぶりは、今川氏の部下、織田氏の客将、豊臣氏の部将のときだけではなく、関が原陣の後もそうであった。そして、大阪陣以後の、短期間に幕府の各方面の法制をつくり、将来とるべき方針を定めた。 
  「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、ただらくらくとくうは徳川」といわれる。
  家康は織田信長、豊臣秀吉の仕事を基礎にして、新しい封建制度を打ち立てて幕府をつくった。その基礎方針は、祖法(権現さま依頼のしきたり)として、一切の政治の規範とされ、幕末まで権威を持って行き続けた。
  家康が作り出した社会組織や政治組織を幕藩体制と呼んでいる。それは多くの矛盾をはらむ課題を見事に処理した成果である。その中心点は、主役である武士階層の優位を永久に維持する事と、農民と商工業者を統制する問題である。
  まず幕藩体制の根幹は「士農工商」という身分制度である。武士が全ての階層の最上位に座る。これらの身分は世襲を原則として、永久に変わる事が出来ない仕組みになっていた。
  こんな階級や身分の別のあるのは、江戸時代だけではない。しかし、その区別をもっともらしい理由で、みなに信じ込ませたのは江戸時代である。江戸時代の支配者武士は、十パーセントほどで、残りの九十パーセントを収めるのであるから、武器と権力を持っているだけでは安心できない。
  このため利用されたのが儒学であった。家康が登用した儒者は林羅山であるが、これら儒学者は、将軍や大名に用いられて、身分制度についての理論づけをする役わりを果たした。
  豊臣氏は直轄領を二百万石、そのほかにおもな鉱山や重要都市を支配していた。しかし、徳川家康は二百五十万石、毛利輝元、上杉景勝は百二十万石ずつの大名で、ことに家康は百万石の直轄地を持っていた。
  豊臣氏の政権の基礎がそれほど強固でなく、家康が秀吉の生前でも大きな存在であった理由がよく分かる。秀吉の死後はその出身、閲歴、声望から言っても家康が他の大名を断然圧していた。豊臣氏から徳川氏への政権の受け渡しは、関が原の役や大阪の役というわけでなく、すでに秀吉の死と同時に始まっている。
  関ヶ原役の後徳川氏は、旗本領もふくめて百万石を増加し、家康の死去までに直轄領だけで、二百万石に達した。(後直轄地四百二十万石、旗本知行所二百六十万石、合計約七百万石となり、全国の約四分の一が幕府の支配下にあった。)幕府支配力の源泉は武力である。家康が政権の争いに勝利を得たのも、軍事力が強かったためである。
  それは将軍直属のものとしては、旗本と御家人が中心であった。その数は十八世紀半ばで、旗本が五千二百余人、御家人が一万七千三百余人、合計二万二千五百余人に従者をふくめ八万人ほどになる。従者は臨時の者が大部分であったが、個々の大名を威圧した力は強い。こうして徳川氏は権力?富力?兵力にいえて大名を押さえつけた。
  家康は朝廷にたいしても、押さえつける政策を採用した。これは将軍を事実上の「国王」にするため必要であった。
  一六一三年(慶長十八年)には公家衆諸法度を定め、大阪の役の直後一六一五年(元和元年)には、十七か条の「禁中並びに公家衆諸法度」を制定した。天皇は政治を離れて学問に意を用いるべきだとするのがその法意であった。
  家康は朝廷の外戚となることを望み、一六二十年(元和六年)秀忠の第五女和子(東福門院)の入内が実現した。そして、秀忠の近臣が付き添って御殿の警衛や雑用に当たった。後には皇居や仙洞御所にも置かれて朝廷を監視する役目をもはたした。やがて秀忠の孫に当たる明正天皇が奈良時代以来始めての女帝として即位した。
  大名に対しては、全ての点に優越しているが、尚厳しく統制した。まず大名を、天皇からもらう官位、領地の大小、江戸城中の詰所の区別、将軍とのつながりなど四通りの格付けをした。
  このうちで親藩、譜代、外様という将軍とのつながりによる格付けが、もっとも重く見られた。親藩が第一で、外様がもっとも遠い存在である。そして、大名は将軍のものである土地を分けてもらい、年貢をとるだけのものであるとの基本的な考え方から、大名の整理とか国替えはしばしば行われた。
  国替えの方針は、江戸城のある関東地方は幕府の直轄地(天領)、旗本、譜代の小藩でかため、東海道?中山道?近畿などの要地も、徳川氏に使い関係の物を置き、外様の大名は奥羽?四国?九州などの辺地に映すという狙いであった。さらに外様の大大名を譜代?親藩に監視させ、隣国が結びつく余裕のない体制を作るのが目的であった。
  一六一五年(元和元年)家康は「武家諸法度」を公布した。居城を新しく作ることを禁じ、修理にも幕府の許可を受ける事、幕府に無断で結婚はならないと定めてある。
  また、家康が将軍となってからは、外様大名が江戸に屋敷を作り、人質を出すことが急に盛んになった。これが参勤交代の制度に発展する。これににた制度は外国もあるが、参勤の期間を一定し、家族を江戸に留置した事は、まれな方法であった。
  土地の生産高を玄米に換算するのが、幕藩体制の特質的な仕組みであった。農産物が家臣の俸禄となり、大名の経費となったから、武士の経済を支えたのは農民である。そこで、将軍?大名?旗本らの領主は、農民を統制しなければ封建制を維持できない。 
  その農民は耕作が出来るという事だけでなく、ある基準がある。自分の田畑を耕し、労役をも一人まえに負担する小農民でなければならない。押さえつけられてもほとんど抵抗をしなかった戦国時代以前の農民は、経済的に思想的にたくましく成長した。もはやこの現実を無視して、豪農だけに頼っては封建制を維持できない。
  そこで秀吉に続き家康をはじめ大名たちは、土豪に隷属していた名子を一人前の小百姓(本百姓)に仕立てる政策を採った。その一方では厳しく統制した。
  「百姓どもは死なぬように、生きぬようにと合点して、年貢を取るように」
  というのは、家康の言葉であるという。
  また家康の側近、本多正信は、「百姓は天下の根本である。これを収めるには法がある。まず、一人一人の田地の境目を良くたて、さて、一年間に百姓の必要な食料や種も実などを残して、そのあまりを年貢として取り上げよ。百姓には余分のものを持たせぬよう、しかし不足のないよう見計らって、取り立てるが良い」ともいった。いかにもひどい思想であり、政治である。しかし、これ以前に権力者が「百姓」といったのは豪農の事で、耕作する小農民は、農具類と同一視した。だから秀吉いごの耕作農民の地位は、かなり向上したといえる。
  幕藩体制は米を中心とした経済で支えられるが、商品経済?貨幣経済のすすみと、それが封建制の進展に果たした役わりとは過小評価できまい。しかし、後者があまり優勢になっては、封建制度を危機に導く。個々に商工業政策の困難さが潜んでいる。
  職人や商人は、江戸時代以前では低い階層であった。しかし、商工業が発達し、ことに商人のうちには軍需品を製造するものがあったから、職人は商人より上位に格付けされた。職人は同業組合の「仲間」を作ったが、後この組合は幕府から公認されるようになった。
  商工業者の住む都市は、城下町が多い。豊臣氏のように江戸幕府も全国の主な都市を直轄した。江戸をはじめ、駿府?京都?伏見?大阪?堺?長崎?新潟などである。これらの年は、平時や戦時に物資の供給地とし大きな意味をもち、後になると冥加、運上とか御用金の負担として重要であった。
  鉱山の直轄も、織田信長のころからであるが、家康は関が原の役後に、佐渡?伊豆?石見?但馬?生野などの主な金銀山を直営にした。
  十七世紀はじめには、採掘法や精錬法の進歩によって、金銀の産出は巨額に達した。家康が主要鉱山を直轄にしたのは、その鉱産物を直接入手するだけでなく、それを素材として貨幣の鋳造を行い、全国の通過を統一する意味もあった。
  家康は、自由通商政策をとった。フィリピン、アンナン、パタニ、カンボジア、シャム、チャンバ、デンタン、さらにオランダ、イギリス、スペインと友好関係を結び、日本人の通商活動を保護促進するため御朱印船制度を開設し、また糸割符を実施し、ポルトガル商人の生糸貿易独占を統制した。
  輸出品は鉱産物以外は雑貨が多く、輸入品は衣料のほか粗製原料品であった。家康は長崎奉行に側室の兄長谷川藤広などの腹心を任命して、生糸や鉛などの輸入品を買い取らせた。そして国内の糸価が騰貴したときに、手持ちの生糸を市場に放出して、巨額の利益を得ていた。
  家康は富力が政治上にもつ威力をよく知り、また利用した。その倹約ぶりは、毎日生活から幕府の財政まで徹底的に行われた。夏期には麦飯を食べ、鷹狩にも宿所のろうそくは自分の今と鷹部屋に限ったほどである。倹約と理財とによって家康が蓄えた財宝は、駿府城に移る前に秀忠に与えたのが金三万枚?銀一万三千貫で、駿府在城十年間では、金銀約百九十三、四万両と生糸三百八十四貫以下の驚くべき数量である。
  家康は日本の古典も好んだが、漢学ことに儒学を研究した。古典の保存にも力を突くし、僧侶に謄写させたものが多い。江戸と駿府とに文庫を設けた。現在でもその蒐集品をかなり見ることが出来学界に貢献している。学者としては林羅山を登用した。
  家康は神に祭られて、理想的な偶像に作り上げられた。その姿をほめたものが一つもないから、尋常とはいえなかったのであろう。
  晩年、駿府にいたときには、あちゃの局?亀の局?ちゃあの局?万の局など五人の妾があった。しかも死亡(胃癌らしいというのが、最近の学説である)する数ヶ月前まで鷹狩するほどの健康に恵まれていた。
             (終り)
离线新宿龍義
馨りツユ

只看该作者 沙发  发表于: 2008-10-27
お疲れ様です。
贯通超连
新人导航(新手请阅读) 综合疑问区 关于日语输入法、快捷键等常见问题! 貫通無料ftp

一寸先は闇、振り返るそこも闇。
闇より暗い世界に、おれはいったいなにものだ?


别人笑我太疯癫,我笑他人看不穿。
不见五陵豪杰墓,无花无酒锄作田。
离线卡卡西命
只看该作者 板凳  发表于: 2008-10-27
辛苦LZ了~~瓦全收了~~
[font=黑体][size=2][color=green]反正我就是一泪腺发达的人......................
遇到不顺心的事情就想哭两下..........................
哭完了抽抽鼻子又是一条好汉..............................
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离线waclj2006
只看该作者 地板  发表于: 2008-10-29
応援してくれて、どうも、今後もよろしくお願いいたします。
离线卡卡西命
只看该作者 4楼 发表于: 2008-10-29
こちらこそ~お互いに~
[font=黑体][size=2][color=green]反正我就是一泪腺发达的人......................
遇到不顺心的事情就想哭两下..........................
哭完了抽抽鼻子又是一条好汉..............................
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