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[台词脚本]『東京タワー』の翻訳(185) [复制链接]

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离线yamoli66
 

只看楼主 倒序阅读 使用道具 楼主  发表于: 2012-01-01

Ⅶ(2)
  五月にある人は言った。

東京でも田舎町でも、どこでも一緒よ。結局は、誰と一緒におるのか、それが大切なことやけん。

十五の時にオカンの元を離れてから十五年。ボクとオカンは東京の雑居ビルで、また一緒に暮らし始めた。
2DKの狭い部屋で、子供の頃のように親子ふたりで暮らすことになった。今までオカンとボクは食堂の隅にある小部屋、閉院した病棟、親戚の家、色々な所に移り住んだけれどいつもどこかで気兼ねをしていて、お互いその場所を自分の家だと感じたことはなかったと想う。
そしてまた、騒音にまみれたボウリング場の上というおかしな所に住んではいるけれど、もう、自分の住む場所を恥ずかしいとも、落ち着かないとも感じることはなかった。親戚や知人にお世話を受けて住んでいるではない。誰かの住まいに居候(いそうろう)しているのでもない。
借金をして借りた場所だけれど、不動産で契約金を納め、月月の家賃を自分で払って住んでいる。誰にも頭を下げることもなく暮らせる家だ。その気持ちは、ボクよりもオカンの方がずっと強く感じていたことだと思う。
年老いても自分の家と呼べる場所もなく、親類の好意の中を転々と暮らしてきたオカンにとってこの笹塚の家は今までで一番心地良い家だったに違いない。
オカンとボクが、初めて心から自分の家だと思える家にようやく、辿り着いたのだ。
「ずっと田舎者やったのにから、六十過ぎて突然、渋谷区民になったんやね」
住民票を移し、ボクの扶養家族になり、保険証の名前の順番が十五年前と変わった。
そして、ボクには実家と呼ぶ場所がなくなった。福岡に戻っても、もう帰る家がない。それはオカンも同じことだった。ボクたちにはもう帰る所がない。このボウリング場の上に浮かぶ部屋が、ボクたちの実家になった。
「荷物持って来ても置くとこないよ」
引越し前に釘を刺しておいたのだが、実際に送られて来たのはいくつかの段ボール箱だけで、想像していた以上に少ないものだった。気を使って、ほとんどのものを処分してきたのだろう。それに数年前、病棟の借家(かりや)に住んでいた頃、そこに泥棒が入って、大切にしていた着物類は全部盗まれてしまっていたから、財産というものもあるはずはなかった。


在五月,有人这样说。
别管在东京别管在乡下别管在什么地方都要住在一起。至于是和谁在一起,那是最重要的。

15岁的时候从母亲的身边那里走出来,已经分别了15年。现在我和母亲又在东京杂居大楼里开始一起生活了。
2DK狭窄的房间里,像小时那样母子二人一起生活起来。这么多年来母亲和我住过食堂角落的小房间、关门停业的医院病房、亲戚的家等,住了很多地方。别管在什么地方什么时间总是很不自在,我们从来就没有把那些地方当成自己的家。
还有,虽然居住在被噪声包围的保龄球场的上面不太满意的地方,但是并没有感觉到自己的住所可耻、不舒适。并没有打扰亲戚朋友而自己居住在这里。并没有在谁的住所寄居着。
虽然是借钱租住的地方,但因房产签约正常付钱,自己每月付房费而住着。这样并没有向谁低头这里是自己生活的家。我想,这种心情,母亲比我的感觉更强烈。
年纪大了却还没有可称作是自己家的地方,在亲戚的好意帮助之中之转来转去移居而住。对这样生活的母亲来说,这个世塚的家肯定是至今为止最舒心的家。
母亲和我,好不容易第一次从心里自认为这是自己的家。
“一直是一个乡下老土,过了六十岁,突然成为涉谷区的居民了。”
居民证变了,母亲成了我的抚养家属,保险证上名字的顺序和15年前不同了。
而且对我来说,已经没有可称为老家的地方了。返回到福冈,也没有可回之家了。对母亲来说也一样。我们已经没有可回老家的地方了。这个在保龄球场上面浮漂着的房子成了我们的老窝。
“带着东西来却没有可放的地方呀。”
在搬来之前叮嘱过,而实际送来的东西也就只是几个纸箱子,并没有超过所想像的。母亲也留心了吧,把所有的东西都处理掉了。在这数年前,租住在医院病房的时候,有小偷进去,把所有的衣服全部偷走了,这样当然已经没有什么财产了。
离线yamoli66

只看该作者 沙发  发表于: 2012-01-01
母亲年过60岁才有了可称为自己的家。儿子在努力,但有一点晚。