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[茶道]千利休(中日对照) [复制链接]

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离线萧夕雨
常笑的人运气不会太差O(∩_∩)O~
 

只看楼主 倒序阅读 使用道具 楼主  发表于: 2011-04-22
— 本帖被 萧夕雨 设置为精华(2011-04-22) —
关键词: 千利休

千利休(せんのりきゅう せんりきゅう、大永2年(1522年)-天正19年2月28日(1591年4月21日))は中世末期、戦国時代、安土桃山時代の茶人。今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた。茶聖とも称せられる。
千利休(假名せんのりきゅう せんりきゅう、大永2年(1522年)-天正19年2月28日(1591年4月21日))是中世末期、战国时代、安土桃山时代的茶师。与今井宗久、津田宗及并称茶天下三宗匠。尊称其为茶圣。

名·号
幼名は与四郎(與四郎)で、のち、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。
名·号
乳名与四郎,后法名为宗易、号抛筌斋。


家族
家庭

宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ、生年不詳 - 天正5年7月16日(1577年8月10日))
    先妻。天文11年(1542年)頃に利休に嫁ぎ、一男三女をもうけた。しかし夫婦仲は円満ではなかったと伝わる。
宝心妙树(假名:ほうしんみょうじゅ、生年不详-天正5年7月16日(1577年8月10日))
    前妻。天文11年(1542年)左右下嫁与利休,生一儿三女。但据说夫妻关系不太好。


宗恩(そうおん、生年不詳 - 慶長5年3月6日(1600年4月19日))
    後妻。元は能役者の宮王三入の妻で、一男(後の少庵)をもうけた。天文22年(1553年)頃、夫に先立たれる。天正6年(1578年)兼ねてより縁のあった利休が前年に妻を亡くしていたため、利休と再婚した。宗恩は新たな袱紗さばき提案するなど、自身茶の湯に精通し、利休のよい補佐役、理解者であったといわれる。
宗恩(假名:そうおん、生年不详-庆长5年3月6日(1600年4月19日))
    后妻。原是能剧演员宫王三入的妻子,生育一儿。天文22年(1553年)左右,丈夫去世。天正6年(1578年)相识的利休因妻子去世与其再婚。据说宗恩提议使用小绸巾等,精通茶道,是利休很好的辅佐者和理解者。


千道安
長男。母は宝心妙樹。
千道安
长子。母亲是宝心妙树。


宗林(そうりん、生没年不詳)
次男。母は宗恩。夭折し、父母を悲しませたという。
宗林(假名:そうりん、生没年不详)
次子。母亲宗恩。夭折,父母悲伤不已。


宗幻(そうげん、生没年不詳)
三男。母は宗恩。夭折した。
宗幻(假名:そうげん、生没年不详)
三儿子。母亲宗恩。夭折。


田中宗慶
一説に庶長子。
田中宗庆
据说是私生长子。


清蔵主(せいぞうしゅ、生没年不詳)
庶子。明叔寺を号。
清藏主(假名:せいぞうしゅ、生没年不详)
私生子。号明叔寺。


千少庵
養嗣子。宗恩の連れ子。
千少庵
养嗣子。宗恩与其前夫的孩子。


吟(ぎん、生没年不詳)
長女。母は宝心妙樹。永禄元年(1558年)頃、茶人石橋良叱に嫁いだ。
吟(假名:ぎん、生没年不详)
长女。母亲宝心妙树。永禄元年(1558年),嫁于茶人石桥良叱。


三(さん、生没年不詳)
次女。母は宝心妙樹。天正4年(1576年)頃、利休の弟子である万代屋宗安に嫁いだ。天正17年(1589年)豊臣秀吉に気に入られて、奉公するように請われたが断り、後の利休の自害の遠因になったという説がある。文禄3年(1594年)夫が没すると、実家に戻った。
三(假名:さん、生没年不詳)
次女。母亲宝心妙树。天正4年(1576年),嫁于利休弟子万代屋宗安。天正17年(1589年)被丰臣秀吉看重,拒绝为其效劳,据说这成为后来利休自杀的远因。文禄三年(1594年)丈夫去世,回到了娘家。


不明(生没年不詳)
三女。母は宝心妙樹。従弟にあたる千紹二に嫁いだ。三の逸話は一説には彼女の事とも言われる。
不明(生没年不详)
三女儿。母亲宝心妙树。嫁于堂弟千绍二。也有说三的轶闻是发生在她身上的。


不明(生没年不詳)
四女。母は宝心妙樹とも。天正12年(1584年)本能寺の僧侶円乗坊宗円に嫁ぐ。
不明(生没年不详)
四女儿。母亲也是宝心妙树。天正12年(1584年)嫁于本能寺僧侣园乘坊宗园。


不明(生没年不詳)
五女か。魚屋与兵衛に嫁いだ。
不明(生没年不详)
五女儿。嫁于鱼屋与兵卫。


亀(かめ、生年不詳 - 慶長11年10月29日(1606年11月29日))
末女、六女か。名は長(ちょう)とも。天正4年(1576年)頃、後に利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦を儲けている。利休が秀吉の怒りを買って堺に蟄居する際に、歌を亀に残している。また夫婦仲は良好ではなかったようで少庵とは別居していたが、息子千宗旦が利休に連座しようとした際には別居先から駆けつけている。
龟(假名:かめ、生年不详-庆长11年10月29日(1606年11月29日))
幺女。名也作为长。天正4年(1576年)左右和利休养子少庵结婚。与其生了宗旦。利休惹怒了秀吉禁闭在堺的时候将歌留给了龟。因为父亲关系不太好,所以曾和少庵分居,但是在儿子千宗旦受利休牵连时停止了分居。