私の知っている日本
この夏、3ヶ月間上海の日本企業で実習するチャンスが与えられました。しかし、そこで出会った日本に私は戸惑うばかりでした。
事務所では「すんまへん」とか「ぼちぼち行こうか」とか「よかよか、少し遅れてもよかよか」というわけの分からない言葉が飛び交い、私は本当に知らない国に来たような感じがしました。私達は毎日39℃の酷暑の中、ヘルメットとかぶり、強い日差しを浴び、現場で通訳をしなければなりませんでした。夜は、扇風機にぬるい風を吹いてもらいながら昼分からなかった「アングル」とか「塩ビ管」とか「ソケット」などの専門用語を一生懸命覚えていました。
少しゆとりができると一緒に働く日本人の仕事ぶりが目に入るようになりました。それでも東北地方に育った私は暑さになれない仕事に疲れきっていました。
そんなある日、私は「人はなんで生きているのか、毎日こんな大変な仕事をして、決して多くはないお金をもらって多少自分の欲を満足させるという生活なんてつまらない。」とさも世間のことが解かっている口調で不満を言いました。その日本人はしばらく考えて「人は綺麗に死ぬ為に生きるのだ」と言いました。その瞬間私は簡単すぎる単語で構成されたその言葉の意味がわかりませんでした。
この言葉は中国語にも英語にも訳せそうにありません。言葉は民族性を反映します。そこまで考えて私は「散る桜海碧ければ海へ散る」という俳句を思い出しました。日本人は桜の花が大好きです。桜の花を見たことのない私に、淡白で汚れない花びらが風に乗って一面の海へ散ってゆく姿を想像させました。しかし、私はその美しさに悲壮感を感じます。
「人は綺麗に死ぬ為に生きている」。なんか桜の花のようです。しかし、桜の花は散る為に咲くのでしょうか。花が美しいのは、受粉の為に虫を寄せる為でしょう。花が美しいのは立派な実をつける為の植物の知恵です。決して綺麗に散る為に咲く花などないと思います。
人も同じですね。人は死ぬ、それは動物である私達の宿命です。しかし、綺麗に死ぬなんて誰が考えるでしょう。人は自分の意志で両親を選ぶことはできないし、自分の意志で死ぬこともできません。自分の意志で死ぬというのは自殺です。太宰治、芥川竜之介などの日本の作家たちは自殺しました。彼らは綺麗に死ぬ為に素晴らしい小説を書いたのでしょうか。やっぱり私には簡単すぎるこの日本語が理解できません。しかし、その中年の日本人はごみ箱の傍らに落ちている吸殻を拾ってごみ箱に入れます。現場では自ら高いところに登って、下で大声で通訳してる私の顔に彼の汗が落ちてきたこともあります。男くさい汗でした。私はその汗が美しいと思いました。一生懸命仕事している姿が美しいと思いました。
その彼が「綺麗に死ぬ為に生きている」と言いました。日本に行ったことのない私は今も海へ散る桜の花びらを想像するようにこの言葉を考えています。