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オリンピックの歴史 [复制链接]

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离线Kohakugawa
 
只看楼主 倒序阅读 使用道具 楼主  发表于: 2004-08-23

1996年のアトランタは近代オリンピック大会の100周年記念大会でした。新しい世紀に向けて歩み続けるオリンピック。その歴史を振り返ってみることにしましょう。


オリンピックの誕生



古代オリンピックはいつごろ始まったのか


1896年に始まった近代オリンピック。その前身となったのは古代ギリシアで行われていた「オリンピア祭典競技」、いわゆる古代オリンピックです。


古代オリンピックが始まったのは、考古学的な研究によって紀元前9世紀ごろとされています。現代のオリンピックは世界平和を究極の目的としたスポーツの祭典ですが、古代オリンピックはギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事でした。


全能の神ゼウスをはじめ多くの神々を崇めるための、神域における体育や芸術の競技 祭だったのです。考古学的な研究によって、当時のギリシアにはオリンピア地方で行われていた「オリンピア祭典競技」のほかに、コリント地方の「イストミアン・ゲームズ」、ネメア地方の「ネメアン・ゲームズ」、デルフォイ地方の「ピシアン・ゲ ームズ」などが4大祭典競技として知られています。


オリンピックが4年に1度開かれる理由


オリンピックが開催されるのは4年に1度。その理由にはいくつかの説があります。


最も有力なのは、古代ギリシア人が太陰歴を使っていたからという説です。現代、一般的に使われている太陽暦の8年が、太陰暦の8年と3カ月にほぼ等しいことから、8年という周期は古代ギリシア人にとって重要な意味をもっていたのです。暦を司るのは神官であり8年ごとに祭典が開かれるようになり、後に半分の4年周期となりました。太陰暦では49カ月と50カ月間隔を交互にして開催されていたようです。


最初のオリンピック種目


古代オリンピックで最初に行われた競技は、1スタディオン(約191m)のコース を走る「競走」でした。オリンピアの聖地には、競走のための「スタディオン」が築かれていました。スタディオンは長さ約215m、幅約30mの広場を高い盛り土がスタンドのように囲んだ施設(貴賓席として白い大理石のベンチも用意されていた)です。1スタディオンという距離は、このスタディオンの競技場が基準となった単位なのです。


紀元前776年の第1回大会から紀元前728年の第13回大会まで、古代オリンピックで開かれていたのは競走1種目だけでした。1スタディオンはゼウスの足裏600歩分に相当し、ヘラクレスがこの距離を実測したとも伝えられています。


古代オリンピックのさまざまな種目


その後、古代オリンピックは種目の数を増やしより大きな祭典へと発展していきます。伝説や考古学的研究によってわかっている古代オリンピックの歴史を、競技種目のあらましによってたどってみましょう。



ディアロウス競走


紀元前724年の第14回大会から、2スタディオンの距離を走る中距離競走が種目に加わった。ちょうど現在の400mに相当し、スピードと持久力が必要な競技だった。


ドリコス競走


第15回大会からは長距離競走も実施されるようになりました。その距離は大会によって変更されたようですが、スタディオンの直線路を10往復する競技でした。現在の陸上競技のようにタイムを計測するわけではないので、競技者はスローペースで駆け引きを繰り広げ、最後のスパートで勝負を決したようです。


ペンタスロン


紀元前708年の第18回大会から、ペンタスロンといわれる五種競技が始まりました 。短距離競走、幅跳び、円盤投げ、やり投げ、レスリングの5種目を一人の選手がこなす競技で、3種目以上を制した者が優勝者と認定されていたようです。


レスリング



ペンタスロンで行われたレスリングが、紀元前668年の第23回大会から単独の競技として実施されるようになりました。


立ったままの姿勢から(投げるために片膝をつくことは認められていた)相手を持ち上げて投げる競技で、正しく美しいフォームで投げなくてはなりませんでした。時間制限はなく、勝敗が決するまでに長い時間がかかる過酷な競技だったようです。


ボクシング



レスリングと同じ大会から、ボクシングも始まりました。レスリングと同様に時間 制限もインターバルもなく、たとえ倒されても敗北を認めない限り相手の攻撃は止まりません。さらに体重別の階級はなく、グローブの代わりに敵へのダメージを大きくするための革ひも(のちに金属の鋲まで埋め込まれた)を拳に巻いての殴り合いだったようです。


戦車競走


紀元前680年の第25回大会からは、48スタディオンの距離で争われる4頭立ての戦車競走が始まりました。また、第33回大会(紀元前648年)からは競馬競走も行われたようです。こうした競技はスタディオンの南に位置するヒッポドロモスで開催されていたらしいのですが、現在でも未発掘のため詳細はわかっていません。


パンクラティオン


第33回大会からは、パンクラティオンという格闘技もオリンピック競技に加わりました。ギリシア語で「パン」とは「すべての」を、「クラティオン」は「力強い」を意味します。素手ならどんな攻撃をしてもよいというルールで、間接技や首を絞めることも許され、ボクシングと同じようにどちらかが敗北を認めない限りは勝負が決することのない熾烈な競技でした。


オリンピックの聖なる休戦


古代オリンピックにはギリシア全土から競技者や観客が参加しました。当時のギリシアではいくつかのポリスが戦いを繰り広げていましたが、宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければならなかったのです 。これが「聖なる休戦」です。オリンピアからアテネまでの距離は約360km、スパルタまでは130km。武器を捨て、ときには敵地を横切りながらオリンピアを目指して旅をするために、当初は1カ月だった聖なる休戦の期間は、最終的に3カ月ほどになったといわれています。


古代オリンピックの終焉


紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配されます。古代オリンピックはギリシア人以外の参加を認めていませんでしたが、ローマが支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになり、次第に変容を遂げていきます。さらに392年、ローマのテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教と定めたことで、オリンピア信仰を維持することは困難となりました。最後の古代オリンピックが開催されたのは393年の第293回オリンピック競技大祭。戦乱を乗り越え、1169年間も受け継がれた伝統は、終焉の時を迎えたのです。


近代オリンピックのはじまり


古代オリンピックの火が途絶えて1500年の時が流れた1892年。フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵は、ソルボンヌ講堂で行った「ルネッサンス・オリンピック」と題する講演の中で、初めてオリンピック復興の構想を明らかにしました。その理想は次第に世界中の国々の賛同を得ることに成功し、1896年、記念すべき第1回大会がオリンピックのふるさとであるギリシアのアテネで開催されたのです。

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离线Kohakugawa
只看该作者 沙发  发表于: 2004-08-23

近代オリンピックの始まり


フランス人、ピエール・ド・クーベルタンの提唱に世界の国々が賛同し、古代オリンピックの終焉から1500年の時を経て、近代オリンピック競技大会が誕生しました。


以来1世紀にわたり、近代オリンピックは歴史と伝統を築いてきました。草創期に開催された大会のエピソードを足早に紹介します。





第1回 アテネ大会


1896年4月6日~15日



近代オリンピック競技大会の第一歩となる記念すべき大会は、古代オリンピックの故郷・ギリシャのアテネで開催されました。


当時のギリシャは国内の経済問題などを抱えており、開催の決定は難航しましたが、国際オリンピック委員会(IOC)の会長に就任したギリシャ人のデメトリウス・ビケラスや事務局長に就任したクーベルタンらの努力が実を結び、計画通りにギリシャで開催できることになったのです。


第1回大会の出場選手は男子のみ


開会式はアテネのパンアテナイ競技場に5万人の観衆を集めて行われました。参加したのは欧米先進国の14ヶ国。選手は男子のみで280人。第1回の近代オリンピックは、古代オリンピックと同じように女人禁制の大会だったのです。


実施された競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目。ヨットも予定されていましたが、悪天候のため中止になりました。また、ウエイトリフティングが行われていますが、このときは体操の一種目として実施されました。


観衆に人気の陸上競技ではアメリカが圧倒的な強さを発揮。全11種目のうち9個の金メダルを獲得しました。100メートルでは優勝したアメリカのトーマス・バーグ選手がただ1人クラウチング・スタートをして注目を集めました。


マラソンで地元ギリシャの選手が優勝



花形の陸上競技で優勝者がないまま最終日のマラソンを迎えた地元ギリシャ。ギリシャの故事にちなんで設定されたマラトンからパンアテナイ競技場までの約40キロのコースでのマラソンには、25人の選手が出場しました。25人のうち半分以上は地元ギリシャの選手でしたが、序盤から中盤にかけてギリシャ選手はトップに立つことができません。応援に詰めかけた観衆に失望の色が濃くなりかけたころ、残り7キロの地点でついにギリシャのスピンドル・ルイス選手がトップにおどりでたのです。


ルイス選手はトップのまま競技場に入り、興奮して貴賓席から飛び出したコンスタンチノス皇太子、ジョージ親王らに伴走されながら、2時間58分50秒の記録で優勝を果たしたのです。羊飼いの仕事をしていたルイスは、この優勝で一躍ギリシャのヒーローとなりました。





第2回 パリ大会


1900年5月20日~10月28日



万国博覧会の付属国際競技大会として実施


第2回大会は近代オリンピックの提唱者であるクーベルタンの祖国フランスのパリで開催されました。


ところがパリでは同じ年に万国博覧会を開催する計画があり、さまざまな事情によってオリンピックが万国博覧会の付属大会として開かれることになってしまったのです。


開催された競技種目や参加者は格段に増え、女子選手も出場して大会は盛大に行われました。しかし、万国博覧会の付属になってしまったことで大会運営上は大きな混乱をきたし、3位以内の入賞者へのメダルが贈られたのは運営にクーベルタンが実際に関わった陸上競技だけ。しかもメダル製作が間に合わず、選手に届いたのは2年後だったといわれています。


したがって、実施された競技数、出場選手数なども信頼できる記録にはとぼしいのですが、16競技60種目が行われ、19ヶ国から1066人(うち女子12人)の選手が参加しというのが現在のIOCの見解です。


最年少の金メダリスト?


ボート競技で決勝に進出したオランダの選手(ペア)は、スタート直前になってフランス人の男の子に「コックス」役を頼んでそのまま出場。見事に優勝を遂げました。この男の子は7歳とも10歳だったともいわれていて、オリンピック史上最年少の金メダリストです。ただ残念なことに、競技運営がしっかりしていなかったため、正確な年齢や名前などの記録は残っていません。
また初めての女性金メダリストになったのは、テニス・シングルスで優勝したイギリスのシャーロッテ・クーパー。彼女はウインブルドンで5回の優勝を誇る名テニスプレーヤーでした。





第3回 セントルイス大会


1904年7月1日~11月23日



キセル・マラソン事件が発覚!


第3回大会はアメリカのセントルイスで開催されました。期間が5ヶ月弱と長いのは、パリ大会と同じく万国博覧会の付属大会として開催されたため。16競技87種目に、13ヶ国681人の選手が出場しました。ヨーロッパから離れたアメリカでの開催のため、パリ大会よりも出場選手数が減っています。



この大会で有名な「キセル・マラソン事件」が発生しています。


8月30日、猛暑の中、40キロのコースで開催されたマラソン競技で、アメリカのフレッド・ローツ選手は20キロ過ぎで力つき、道ばたに倒れ込んでしまいました。


たまたま通りかかった車に乗せてもらいスタジアムに帰ろうとしたのですが、スタジアムまで5マイルのところで車がエンスト。体力を回復したローツは車から逃げるようにそのままゴールを目指し、1着でゴールしてしまったのです。


ローツを車に乗せた男性が迅速に告発したために、その場でローツの不正は暴かれ、およそ1時間後にゴールしたアメリカのトーマス・ヒックスが優勝の栄誉を勝ち取りました。歴史に残る、不名誉なエピソードです。





第4回 ロンドン大会


1908年4月27日~10月31日



各国内オリンピック委員会ごとの参加が始まる


ロンドンで開催された第4回大会から、オリンピックへの参加が各国のオリンピック委員会を通して行われるようになりました。それまでは個人やチームで申し込めば参加できたのです。パリ、セントルイスと続いた万国博覧会付属の大会から脱却したロンドン大会には、22の国と地域から1999人の選手が参加、23競技110種目が行われました。


参加することに意義があるという言葉が生まれたわけ


この大会の、とくに陸上競技でアメリカとイギリスの間にいくつかのトラブルが起こりました。両国民の感情が収拾できないほど悪化していた7月19日の日曜日。セントポール・カテドラルで行われたミサで、ペンシルバニアのエチェルバート・タルボット主教は各国選手団を前に「オリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加したということであろう」と説教しました。


それから5日後、イギリス政府が大会役員を招待して開いたレセプションの席上で、クーベルタンIOC会長は、この言葉を引用して演説。のちのちに語り継がれることになったのです。





第5回 ストックホルム大会


1912年5月5日~7月22日



近代オリンピックの基礎が確立


オリンピックが各国内のオリンピック委員会ごとの参加となったことで「国とは何か」を改めて問うことになり、第5回大会開催に当たっては、さまざまな問題がありました。しかし、スウェーデンのバルクIOC委員は「IOCの認めたスポーツ領域は、政治上の領域とは異なる。オリンピックには政治上の領域に関係なく独立して参加する資格がある」と強く主張。着々と近代オリンピックの理想が確立されていったのです。この大会には28の国と地域から2490人の選手が参加。15競技108種目が行われました。
日本がオリンピックに初参加



1909年5月、クーベルタンからの呼びかけによって嘉納治五郎(当時、東京高等師範学校=のちの筑波大学=校長だった)がアジアで初めてのIOC委員に就任。ストックホルム大会への参加に向けて大日本体育協会を創設しました。


1911年11月18日、19日には日本で初めて国内選考会が開催され、短距離で優勝した東京帝国大学の三島弥彦と、マラソンで世界最高記録を作って優勝した東京高等師範学校の金栗四三の2人を日本代表としてストックホルム大会に参加したのです。


競技の結果は、世界の壁を痛感するものでした。短距離の三島選手は外国選手との体格差の前に100メートル、200メートルともに予選最下位。400メートルは予選通過したものの疲労のため準決勝を棄権しました。期待された金栗選手は炎天下のレースにもかかわらず外国人選手の無理なペースに合わせて走ったために32キロ過ぎに日射病で倒れてしまったのでした。

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离线Kohakugawa
只看该作者 板凳  发表于: 2004-08-23

激動の時代を迎えたオリンピック


オリンピックは平和の祭典。しかしながら、世界の歴史の中で、オリンピックもその大きな波に揺れました。今回はまず、第一次世界大戦などが勃発した激動の時代のオリンピックにスポットを当て、ユニークなエピソードを紹介していきましょう。


第7回 アントワープ大会


1920年4月20日~9月12日



第一次世界大戦で第6回ベルリン大会は開催不能


第6回大会は1916年にドイツのベルリンで開催される予定でした。しかし直前に第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパは戦火に包まれました。そんな状況の中、ベルリン大会の開催は不可能になったのです。


戦争が終わった翌年、クーベルタンIOC会長は5年ぶりにIOC総会を召集。1920年に開催されるべきオリンピックの開催地を決めることが大きな議題でした。ヨーロッパの国はどこも戦争の深い傷跡を残しており、とくにベルギーも大きな被害を受けていたのですが、IOC総会では、あえてそのベルギーのアントワープを開催地に選びました。


「平和の祭典」をプレゼントすることで、喜びを分かち合おうとしたのです。


ベルギーの国民はその期待に応えて盛大なオリンピックとなり、第7回アントワープ大会は史上最高となる29ヶ国から2,668人の選手が参加して、23競技161種目が行われました。


史上最年長メダリストの誕生


この大会でスウェーデン射撃チームの一員として出場したオスカー・スパーン。大会当日の年齢は72歳と280日だった。チームは見事に射撃ランニング・ディア(単発)で団体銀メダルを獲得。スパーンは今でもオリンピック史上最年長のメダリストとして歴史に名前を刻んでいます。また、最年長金メダリストもこのスパーンで、それは第5回ストックホルム大会の同じ種目で獲得したものでした。


日本人初のメダリストはテニスの熊谷一弥選手


2回目のオリンピック参加となった日本。陸上競技や水泳などではまだ世界との力の差があったのですが、テニスに出場した熊谷一弥と柏尾誠一郎の活躍が注目されました。シングルでは熊谷が銀メダルを。またダブルスでも熊谷と柏尾のペアで銀メダルに輝いたのです。





第8回 パリ大会


1924年5月5日~7月27日



パリで2度目の開催


戦争の傷跡を乗り越えたオリンピック。第8回大会は第2回大会の舞台でもあったパリを開催地として、44ヶ国から3070人の選手を集め、19競技140種目が実施されました。大会ではアメリカがすばらしい強さを見せ、140種目のおよそ3分の1に当たる45種目で金メダルを獲得したのです。


マイクロホンの登場は歴史的な出来事


この大会から、マイクロホンが使われるようになったことは、歴史的な出来事のひとつです。それまで競技運営の連絡などには大きなメガホンが使われていたのですが、観衆の大歓声でかき消されて選手や役員に連絡や指示が行き届かないのが問題でした。マイクロホンの登場で、その悩みは解消されたのです。


選手村が設置されたのもこの大会が初めてです。それまで選手の宿舎にはホテルが利用されていたのですが、メーンスタジアムであるコロンブ競技場の周囲に1軒4名収容のコテージが建てられたのです。


レスリングの内藤克俊選手が銅メダルを獲得


レスリングフリースタイルで銅メダルを獲得したのは、内藤克俊選手です。当時、 アメリカのペンシルバニア大学レスリング部主将だった内藤選手。大会へはアメリカ選手団と一緒に船で向かったのですが、船中での練習中に指をケガしてしまいます。ケガをおして苦しい戦いを続けながら、まさに根性で勝ち取った銅メダルだったのです。





第1回 シャモニー・モンブラン冬季大会


1924年1月25日~2月5日



冬季大会が試験的に独立


1922年のIOC総会で、かねてから議論されていた冬季大会の独立について結論が出されました。それは「1924年に試験的に独立した大会を開いてみて、その結果によって、冬の大会をどうするか確定する」というものです。したがって、この大会の正式名称は「第8回オリンピアードの一部として、IOCが最高後援者となり、フランス・オリンピック委員会がフランス冬季競技連盟とフランス・アルペンクラブ共同でシャモニー・モンブラン地方で開催する冬季スポーツ大会」というややこしいものでした。


成功するかどうか心配された大会でしたが、16ヶ国から258人の選手が出場し、4競技14種目を実施。天候にも恵まれて無事に成功したのです。


翌年、プラハで開催されたIOC総会では冬季大会の独立に異論はなく、この大会が晴れて「第1回オリンピック冬季競技大会」と認定されたのです。





第9回 アムステルダム大会


1928年5月17日~8月12日



充実期を迎えたオリンピック


アムステルダム大会には46ヶ国から2694人の選手が参加。16競技119種目が実施されました。前回のパリ大会に比べると参加選手数が400人弱、競技種目数で3競技21種目少ないものの、参加国数は2ヶ国上回っています。一度は戦争で中止という時代の荒波にもまれたオリンピックですが、ようやく充実期を迎えたといえるでしょう。


日本人初の金メダリスト誕生


小雨模様の中で行われた陸上・三段跳びで、織田幹雄選手が15メートル21という記録で見事に金メダルを獲得。日本人で史上初の金メダリストとなりました。また同じ競技に出場した南部忠平選手も4位に入賞しました。


また、この大会ではそのほかの種目でも日本人選手が大活躍。印象的なメダリストを紹介しておきましょう。


人見絹枝選手/陸上・800メートル/銀メダル


当時、100メートルの世界記録保持者であった人見選手。期待された100メートルでは準決勝で思わぬ敗退。急きょ800メートルへの出場を決め、見事に銀メダルを獲得したのです。


鶴田義行選手/水泳・200メートル平泳ぎ/金メダル


2分48秒4のオリンピック新記録で優勝。日程が三段跳びよりも6日遅れだったため、日本人金メダル第1号とはなれなかったのです。また、水泳では800メートルリレー(男子)で銀メダル。100メートル自由形で高石勝男選手が銅メダルを獲得しました。



さて、ここまで近代オリンピックが誕生し、成長していく歴史をさまざまなエピソードとともに振り返ってきました。楽しんでいただけたでしょうか。クーベルタン男爵の提唱で始まったオリンピックも、第1回アテネ大会から30年以上の時を経て、いよいよ充実期を迎えたのです。


1925年にプラハで開かれたIOC総会では、1914年から検討を進めてきた『オリンピック憲章』が定められました。また、30年間IOC会長の重責を担ってきたクーベルタン会長が勇退を表明。オリンピックは新しい時代の幕開けを迎えたのです。


もちろんオリンピックの歴史はまだまだ続きます。ここからは箇条書き風に各大会のおもな出来事を紹介していきましょう。



第2回 サン・モリッツ冬季大会



開催期間/1928年2月11日~19日
実施競技種目数/5競技14種目
参加国・選手数/25ヶ国464人



  • 冬季オリンピックがこの大会から名実ともに独立。
  • 冬季大会に6名の日本選手が初参加。完敗に終わる。




第10回 ロサンゼルス大会



開催期間/1932年7月30日~8月14日
実施競技種目数/16競技128種目
参加国・選手数/37ヶ国1328人



  • ヨーロッパから遠隔地だったため、参加国・選手数が激減する。
  • 陸上競技で初めて写真判定装置が登場。
  • 満州事変の勃発などで国際世論の風当たりが強い中、日本は192人の大選手団を派遣。
  • 競泳・男子6種目中、5種目で日本選手が金メダルを獲得。
  • 陸上・男子100メートルで吉岡隆徳選手が決勝に進出。6位入賞。
  • 陸上・三段跳びで南部忠平選手が優勝。日本選手が2連覇を果たす。
  • 馬術・大賞典障害飛越個人で西竹一選手が優勝。

硫黄島で散ったバロン西


ロサンゼルス大会の馬術で優勝、語学も堪能だった西選手は現地でバロン西と呼ばれて各方面の人々と親交を深め、優勝を祝福されました。それから約13年後の1945年。


バロン西が戦車第26連隊長として着任していた硫黄島にアメリカ軍が上陸。敗色濃厚な日本軍の中にバロン西がいることを知ったアメリカ軍は「バロン西、貴下はロサンゼルスで限りなき名誉を受けた。降伏は恥辱ではない。われわれは勇戦した貴下を尊敬をもって迎えるだろう」と呼びかけました。ロサンゼルスで優勝したときの愛馬ウラヌス号のたてがみを身につけて戦っていた西に、この呼びかけが届いたかどうか定かではありません。残念ながら西竹一は3月21日、42歳で散華しました。





第3回 レークプラシッド冬季大会



開催期間/1932年2月4日~13日
実施競技種目数/4競技14種目
参加国・選手数/17ヶ国252人



  • 50年ぶりの暖冬で競技運営がやや混乱する。
  • 日本からは2競技に17人の選手が出場。
  • ジャンプの安達五郎の8位が日本選手の最高成績。




第11回 ベルリン大会



開催期間/1936年8月1日~16日
実施競技種目数/21競技148種目
参加国・選手数/49ヶ国3956人



  • アドルフ・ヒトラーがベルリン・オリンピック大会組織委員会総裁に就任。
  • オリンピック史上初めての聖火リレーが行われる。
  • レニ・リーフェンシュタール女史が監督したこの大会の記録映画が1938年のベニス映画祭で金賞を受賞。
  • 陸上・三段跳びで、田島直人選手が優勝し日本人がこの種目3連覇を果たす。原田正夫選手が2位に入り、日本人が1、2位を独占。
  • 当時日本の占領下にあり、日本代表として出場した朝鮮出身の孫基禎選手がマラソンで優勝。
  • 陸上・棒高跳びで、激闘の末、西田修平選手と大江季雄選手が2、3位に入賞。帰国後、2人は銀と銅のメダルを2つに切ってつなぎ合わせ、激闘の思い出にした。
  • 水泳・男子競泳で金メダルを3個獲得。200メートル平泳ぎは三段跳びと同じくオリンピック3連覇となる。
  • 水泳・女子200メートル平泳ぎで前畑秀子選手が金メダル。日本人女性初の金メダリストとなる。この競技をラジオ中継したNHK・河西三省アナウンサーの「前畑がんばれ!」の絶叫が伝説となる。




第4回 ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会



開催期間/1936年2月6日~16日
実施競技種目数/4競技17種目
参加国・選手数/28ヶ国668人



  • 大会前日、大会会場周辺に張られていたユダヤ人排斥のビラやポスターを撤去するようヒトラーに要求。一度は反発したヒトラーだったが、ラツールIOC会長の厳然とした申し出に屈して、要求通りにポスターなどを撤去する命令を出す。
  • 日本からは3競技に48人の選手団を派遣。
  • フィギュアスケート女子に12歳の小学生、稲田悦子選手が出場。26人中10位となる。

第12回東京大会が中止となる


ベルリン大会の次、1940年の第12回大会は東京で開催される予定でした。1940年は紀元2600年(神武天皇が即位して2600年)に当たる記念すべき年で、国家的祝祭を計画していたのです。ところが、1937年には日中戦争が勃発。オリンピックの開催が近づくにもかかわらず軍部の発言力はますます強まり、ついに1938年7月15日の閣議で「東京オリンピック大会の開催は中止されたし」との勧告を出すことになってしまったのです。IOCは急きょヘルシンキを代替地として開催準備を進めましたが、まもなくソ連のフィンランド侵攻が始まり、第12回大会は中止となってしまいました。


さらに、第13回大会はロンドンが開催地として決定したものの、開催地決定からまもなくヒトラーによるポーランド侵攻を引き金に第二次世界大戦が始まってしまい、再び中止せざるを得ない状況になってしまいました。





第14回 ロンドン大会



開催期間/1948年7月29日~8月14日
実施競技種目数/19競技151種目
参加国地域・選手数/59の国と地域から4064人



  • 第二次世界大戦の責任を問われ、日本とドイツは招待されなかった。
  • ベルリン大会で感動を呼んだ聖火リレーが踏襲された。こののち、1951年のIOC総会で聖火リレーは『オリンピック憲章』に正式に加えられた。
  • 判定機器がさらに進歩。写真判定器や跳躍距離測定器が登場した。

日本選手、幻の金メダル


当時、日本の競泳陣は日本大学在学中の古橋広之進、橋爪四郎らの強豪揃い。泳ぐたびに世界新記録を更新しているような状況でした。当時、日本水泳連盟会長やJOC総務主事などの役職にあった田畑政治は、なんとかロンドン大会への出場がかなうよう奔走したのですが、結局出場はなりませんでした。そこで田畑はやむを得ず、ロンドン大会と同時に全日本水上選手権大会を開催したのです。その大会の1500メートル自由形で、古橋が18分37秒0、橋爪が18分37秒8のそれぞれ世界新記録を樹立。ロンドン大会の金メダリスト・アメリカのジェームズ・マクレーンの記録は19分18秒5でした。


翌1949年8月、ロサンゼルスで開催された全米屋外選手権に古橋と橋爪が出場。22歳だった古橋は400メートル、800メートル、1500メートル自由形と800メートルリレーの4種目でいずれも世界新記録をマークして優勝しました。8月16日の1500メートル自由形では、予選A組に出場した橋爪が18分35秒7の世界新記録を出すと、直後のB組に出場した古橋は18分19秒0という脅威的な記録をマーク。計時員は自分の時計を疑うほど。世界に日本水泳陣の強さをアピールしたのです。

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只看该作者 地板  发表于: 2004-08-24
ご苦労様でした