第二次世界大戦が終わって間もない、昭和二十五年の冬の札幌市でのことだ。戦争の後なので、あまり物もなく、人々はつかれはて、気持ちもすさんでいた。その時、いく人かの中学生や高校生が集まって、大通りに六つの雪だるまをこしらえたのだ。通りをいく人々は、雪だるまを見てほほえみ、ふりかえってはながめだ。そして、厳しい寒さの中に、ほのぼのとした生きる喜びを感じた。
そのよく年は、大人たちもまじって雪だるまを作った。家族で作ったもの、おとなりどうし協力して作ったものなど、みんな楽しくおしゃべりをしながら作った。その中には雪だるまばかりでなく、動物や、人形などの変わった雪像もあった。そのよく年には、もっと大勢の人たちが雪像を作りはじめた。
やがて、日本人のくらしも落ちつき、物資もではじめて豊かになるにつれて、雪像も、電気製品とか、その他の商品のコマーシャルとなって、ますます大型化してきたのだ。
生活の喜びや、厳しい寒さのなかでの生きがいとして、雪像を作ってきた人たちの一部はコマーシャル雪だるまがだんだんおおきくなってきたのをかなしんだ。それにもかかわらず、雪像づくりは大規模になる一方だったのだ。
ついに昭和三十七年、"雪祭り実行委員会”が生まれた。子供たちが六つの雪だるまを作ったとしから十三年めに、冬のささやかなたのしみが、おまつりになったのだ。
雪祭り実行委員会は雪祭りをもとの素朴な気持ちのあらわれたお祭りにするために、雪像のコマーシャルをやめさせ、製作や出品するものに規制を作った。雪祭りの“テーマ.ソング”が生まれたのもこの年で、この年から雪祭りは大きく発展したのだ。