最近、成都の天気が霧勝ちになり、霧による災害や警報がたびたび、新聞で目をすることができる。隣で霧の都で名を馳せる重慶を凌ぐ勢い。霧を降りる日に、一人でぶらぶらと錦江沿いを歩いたり、その辺のお茶を飲める露天店で半日も本を読み、潰したりすることが好きになってしまった。二年前に最後の仕事をやめて以来、念願の自由で独立した暮らしが現実になった。好きな仕事をやりながら、たまに、興味で通訳もやって、「羨ましいなあ、お前の暮らし」って言う友達の話に「とんでもないよ、些細な暮らしをしてるだけだよ、お前もよくやってるじゃないか、もう、何も手に入れたじゃ、俺のほうはただ、自由な時間がちょっと多いだけだよ。でも、七年も成都を離れて、向こうで汗を流して必死にがんばってきた報いがあった」って大人ぶってるせりふにちょっと自慢話を混じっていた。けど、なんだか、よく、わからないけど、今の暮らしにいやになりそうな思いができたみたい。ほんとうはそれに気づいたとき、自分でも、はっとなった。「やりたいことをやってるじゃないか、そんなに金を持ってるわけじゃないけど、別に困ることもないのに、で、いったいどこが」って。霧に包まれた成都のように、俺のこころがボンヤリとして、よく見えない。というわけで、霧の日に、錦江沿いを散歩するようになった。霧の中にあるものを見えるようにしながら、頭の中に、自分のことも考える。ヒット映画赤壁乗せりふを借りて、「僕は考える必要がある」。