日常というものがかくも微塵(みじん)に破壊された光景を見たことはないと、遅ればせながら被災地に入って思った。材木、瓦、ミシン、仏壇、めがね、電動歯ブラシ、家計簿、かつら、割れた便器。ありとあらゆるものがねじれ、ゆがみ、ひん曲がって、街が集落が消えていた▼阪神大震災のときは翌日神戸に入った。あれほど壊れた街を見ることはもうないと思っていた。しかし――。「すべての言葉は枯れ葉一枚の意味も持たないかのようであった」。アウシュビッツを訪ねた開高健の「うめき」が脳裏をよぎっていった▼当事者と非当事者との間にある越えがたい深淵(しんえん)。そこに懸ける言葉を持ちうるのか。「(3・11を)ただの悲劇や感動話や健気(けなげ)な物語に貶(おとし)めてはいけない」。作家のあさのあつこさんが小紙に寄せた文の一節を、きびしく反芻(はんすう)した▼たぶん私たちも、言葉が枯れ葉一枚の意味も持たない壊滅状態から、ともに歩み出すしかないのだ。深淵を飛び越えたつもりの饒舌(じょうぜつ)は、言葉の瓦礫(がれき)にすぎないとあらためて思う▼取材した気仙沼から石巻まで、大小の良港のある陸前は今が早春。〈ふなばらを/まつ青にぬりたてられて/うれしさうな漁船だ/――鮪(まぐろ)をとりにでかけるところか/ああ、春だの〉(山村暮鳥)。こうした平穏は今や遥(はる)かに遠い▼女川の町は文字どおり無くなっていた。女性がひとり、這(は)って形見を探していた。「泣いても泣いても泣けてきて」。国をあげての長い試練となる。懸ける言葉を絞り出したい。