三 万葉集における飛鳥川 万葉集には飛鳥川を詠んだ歌が二十四首(「あすかがは」または「あすかのかは」と訓まれているものに限る)見出せるが、その全てが大和明日香の飛鳥川というわけではなく、巻十には河内の飛鳥川を詠んだかと見られる一首が、巻十四には或いは東国の飛鳥川(こちらは現在のどの川に該当するか不明)を詠んだものかもしれない二首が含まれる。 明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし(巻十秋雑歌二二一四、二二一〇-注6) 阿須可川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも(巻十四相聞三五六六、三五四四) 安須可川堰くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを堰くと知りせば(同三五六七、三五四五) これらが本当に河内や東国の飛鳥川を詠んだものであるかは万葉学者の間でも説が分かれており、或いは大和の飛鳥川かとする説もある。がそれらの詳細は万葉集の諸注釈に譲り、本稿の考察対象からは外しておき、ここでは古今集九三三番歌と同じく大和の飛鳥川を詠んだと見られる残り二十一首について検討する。 さて前掲金子評釈は「万葉を検するに、山川にて、瀬の早きこと、淀のあること、玉藻のおひたること、蛙の鳴くこと、身そぎすることなどのみ見えたり」とする。片桐洋一『歌枕歌ことば辞典』(昭和五八年一二月二〇日角川書店)にも「飛鳥、藤原に都があった時代は当然よく歌によまれたはずだが、「明日香川あすだに見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ」(万葉集??巻二)のような同音反復的枕詞として用いられたものを除けば、「明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどかにあらまし」(万葉集??巻二)「飛鳥川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日暮らしつ」(同??巻十一)のように流れが早いという把握が一般的であった」という分析が載るが、金子評釈の方が詳しいので、その分析を手がかりに見て行く(注7)。 まず「山川」であることを詠んだものとしては、 葦原の 瑞穂の国に 手向けすと 天降りましけむ(中略)神なびの みもろの神の 帯ばせる 明日香の川の 水脈早み 生しためかたき(下略-巻十三雑歌三二四一、三二二七) 春されば 花咲きををり 秋づけば 丹のほにもみつ 味酒を 神なび山の 帯にせる 明日香の川の 早き瀬に 生ふる玉藻の(下略-同相聞三二八〇、三二六六) の二首が挙げられようか。どちらも「瀬の早きこと」を詠んだものでもあり、三二八〇には玉藻が詠まれてもいる。 次に山川であるかどうかはわからないが「瀬の早きこと」を詠んだものとしては、 明日香川しがらみ渡し塞かませば進める水ものどにかあらまし(巻二挽歌一九七柿本人麿) 絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあると人の見まくに(巻七譬喩歌一三八三、一三七九) 今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りてたぎつ瀬の音を(巻十春雑歌一八八二、一八七八詠河) 明日香川水行きまさりいや日異に恋のまさらばありかつましじ(巻十一寄物陳思二七一一、二七〇三) 明日香川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日くらしつ(同寄物陳思二七二二、二七一三) 明日香川高川避きて来しものをまこと今夜は明けずも行かぬか(巻十二正述心緒二八七〇、二八五九) などが挙げられよう。 次に「淀のあること」がわかる歌としては、 明日香川川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに(巻三雑歌三二八、三二五山部赤人) 明日香川七瀬の淀に棲む鳥も心あれこそ波立てざらめ(巻七譬喩歌一三七〇、一三六六) の二首が挙げられる。後世飛鳥川の「七瀬の淀」を詠んだ歌は多く(注8)、後者はその本歌となったものと思われる。前掲一三八三に「絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあると人の見まくに」とあったように、川水が淀むという事態は飛鳥川の流れが速いというイメージとは背馳するようにも思われるが、川筋に曲折があるのだから、速く流れる部分もあれば淀みもあるのだろう。数多くの淀みのある川というイメージも、確かに万葉歌にはあったと押えておくことにする。 次に「玉藻のおひたること」については、既に挙げた三二八〇のほかに次のような例が挙げられる。 飛ぶ鳥 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ(下略-巻二挽歌一九四柿本朝臣人麿) 飛ぶ鳥 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡す 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる(下略-同一九六柿本朝臣人麿) 明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに(巻七譬喩歌一三八四、一三八〇) 明日香川瀬々の玉藻のうち靡き心は妹に寄りにけるかも(巻十三相聞三二八一、三二六七) これらに見える<玉藻が靡く>という表現からは、同時に飛鳥川の流れの速さをも読み取ってよいのであろう。 次に「蛙の鳴くこと」を詠んだものは次の一首だけである。 今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ(巻三雑歌三五九上古麿) この歌の場合、金子評釈の分析には含まれないが、飛鳥川の「さやけ」さ、懐かしさを詠んだものと捉えるべきではなかろうか。『万葉集全注巻三』(西宮一民)は、作者上古麿は伝未詳だが、「奈良遷都後、飛鳥の故郷を偲んで作った歌であろう」と述べている。 明日香川川門を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ(巻十九-四二八二、四二五九「左中弁中臣朝臣清麿伝誦古京時歌」) もそのような例と考えられ、「飛鳥川」乃至「飛鳥の川」といった表現ではないが、「明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし」(巻三-三二七、三二四赤人)の「川」は飛鳥川と考えられており(全注)、飛鳥古京の懐古と飛鳥川の「さやけ」さがともに詠まれている例である。 金子評釈による分析の最後、「身そぎすること」についても例は次の一首のみ。 君により言の繁きを故郷の明日香の川にみそぎしに行く(巻四相聞六二九、六二六八代女王) 歌の中の「君」とは聖武天皇のことであり、これも飛鳥古京を懐かしむ心情が窺える歌と捉えてよいであろう。 以上例示したのは二十一首中の十七首であった。残る四首を掲げると次の通りである。 明日香川明日だに見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ(巻二挽歌一九八柿本人麿) 年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし(巻七雑歌一一三〇、一一二六) 明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ(巻八秋雑歌一五六一、一五五七丹比真人国人) 明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも(巻十一寄物陳思二七一〇、二七〇一) このうち一九八と二七一〇は、『歌枕歌ことば辞典』が前者を引用して言うように、「同音反復的枕詞として用いられたもの」の例としてよいであろう。 一五六一の「行き廻る岡」は「甘樫丘をいうか。飛鳥川はこの甘樫丘の麓をフの字形に取り巻くように流れている」とされ(注9)、或いは山川であることの例に入れてもよいのかもしれないが、表現通り飛鳥川の流路が屈曲していることを詠んだ例と見るべきかとも思われる(注10)。 残る一首一一三〇も、金子評釈や『歌枕歌ことば辞典』における把握の中には納まり切れない例なのではないかと考えられる。この歌は一見、飛鳥川の流れが激しく変化しやすいから、「年月も今だ経な」いのに「瀬々ゆ渡しし石橋もな」くなってしまったと詠んでいるかにも見えよう(注11)が、万葉集の諸注においてはそうは読まれていないようで、「石橋」は「川の中に配置して踏み渡るようにした飛び石(井手至「石橋と岩橋」万葉昭和三八年一〇月)」で、「この歌は目のあたりに「故郷」を見てその昔を思い人事のはかなさを嘆く」(全注渡瀬昌忠)歌と受けとられている。つまり石橋という人造の施設が有限であることと、自然物である飛鳥川の悠久さが対比されているというのである。飛鳥川を悠久の川として詠む例と見てよいであろう。 そういう目で見れば、前出のたとえば「音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川万代までに」(一九六)、「明日香川明日だに見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ」(一九八)、「今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ」(三五九)、「絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあると人の見まくに」(一三八三)といった表現からも、飛鳥川の永遠性を読みとることが可能なのではないかと思われる。 以上により万葉歌における飛鳥川には、金子評釈や『歌枕歌ことば辞典』に示されたもののほかに、流路が屈曲してその周辺に秋萩が生えていること、有限の人事に対比して、また「あす」という音が含まれることからも、永遠性のある川であること、平城京に遷都してからは、「さや」かで川音が清らかな、懐かしい故郷(古京)の川というイメージがあったことが確認できた。流路が屈曲していて流れが速ければ淵が瀬に変わることもあったかもしれない。が少なくとも万葉集においては飛鳥川はそのように詠まれてはいず、むしろ懐かしい永遠の川と認識されていたと見えるのである。 なお以上の中で「今日」という語を詠み込んでいる歌が二首あった(三五九??一五六一)。「昨日」という語を詠み込んだ例はない。古今集の飛鳥川を詠んだ歌を分析するためには心に留めておくべきであろう。 |