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yamoli66 2012-04-21 19:36

『東京タワー』の翻訳(244)


Ⅷ(21)

敦子姉ちゃん夫婦が病室から出て行った後、そこにいたヨシエにオカンはこう洩らしたのだという。
「敦ちゃんと萬屋さん、あの夫婦にね、死ぬまでに一回、ちゃんと謝(あやま)らんといけんことがあるんよ。そのことが、ずっと気になってからねぇ……」
その当時。敦子姉ちゃんと萬屋さんの結婚に、小倉のばあちゃんと兄であるオトンは猛反対したらしい。反対した理由はわからないが、とにかく、中川家の中では結婚は許さん、の一点張りだったそうだ。
ところが、その結婚に家族は反対しているということを、その本人たちにばあちゃん、オトンが告げるのではなく、オカンにそれを伝えに行けと強要された。
「あたしは好き同士が一緒になるのが一番と思うとったけん、なんでそんなこと言うんやろうかと思うんよ。私は賛成しとったんやけど……」
なぜ、そんなことを肉親ではなくと嫁いで来たばかりの義姉に転言させるのか理解に苦しむが、オカンは嫌々(いやいや)ふたりを呼び出し、反対の旨を伝えることになった。
「あの時、ふたりはたいがい嫌な思いをしたやろうねぇ。かわいそうにねぇ。あたしは賛成しとるんやけど、そうも言えんやった……。あの時、あんなこと言うてしもうて、一回ちゃんと謝りたいと思いよったんよ……」
そんな理不尽な伝令(でんれい)に四の五もなく行かされる、その家の中でのオカンの立場とはそのような扱いだったのだろうか。
しかし、結局はどういう経緯で相成ったのかは知らないが、ふたりは晴れて結婚することになった。そして結婚した直後に萬屋さんはアメリカに転勤することになり、オカンもそれから顔を合わせることがほとんどなくなったのだ。博子もアメリカで生まれた。
そして、オカンにはその時の釈然としない後悔だけが三十年以上燻り続けていたのだった。
慌しい毎日の中。気が付けばいつの間にか春はやって来た。アスファルトとコンクリートだらけの東京でも、どこからか芽吹いてくる新しい植物の匂いが生暖かい風に乗ってやって来る。
いつもならこの季節は、笹塚の消防学校前から幡ヶ谷方面に延びる小さな遊歩道の桜並木をオカンは散歩している頃だろう。

その年、二〇〇一年の桜開花宣言は三月二十四日。病院の入口にある桜の木にも二分、三分と花が膨らみ始めている。


敦子夫妇从病室出来走了之后,母亲对呆在病房的ヨシエ表露发泄出这样的话。
“敦和万屋,这样的夫妇呀,到死一定要有一次道歉。对那样的事情我却一直过意不去。”
当时,对敦子和万屋结婚这件事,奶奶和作为兄弟的我父亲都极力地反对。反对的理由还不太清楚,反正在中川的家中是不允许他们结婚的,强烈坚持这一点。
可是,对家族反对他们结婚这件事,奶奶和父亲并没有直接告诉他们本人,而强迫要求母亲去传达这件事。
“我是最想和喜欢的人走到一起的,可我却不能说那样的话呢。我个人是赞成的。”
不知道为什么,实在难以理解让并不是骨肉亲的母亲去传达给小姑子。母亲勉勉强强地把他们两人叫出来,把相反的意见传达了过去。
“那个时候,两个人相互没有什么想法,也挺可爱的。我虽然是赞成的,却不是那样说。那个时候,尽管是说出那样的话,却一直想道次谦。”
对那样没有道理的传令没有说三道四却被执行了。在那样的家中母亲的立场也就那样处理吧。
但,结局是用什么样的原委而成功了呢?却还不知道。两人还很公开地结婚了。而且结婚之后万屋就到美国去工作,从那之后几乎再也没有和母亲见过面。博子也是在美国出生的。
对母亲来说那种不能释然的后悔在这三十多年里一直纠缠不休。
每一天都在慌慌度日之中。在不太在意之中不知觉中春天来了。在布满柏油路、水泥楼林立的东京,开始吐芽的新生植物的芳香乘着从哪里来的暖意的风而飘逸着。
平时在这个季节,母亲正是在从塚消防学校前面向幡谷方向延伸的小的路上散步的时候。

那一年,2001年樱花开花的时间是324日。在医院门口有一个樱树,也有23个花骨朵鼓了起来。

yamoli66 2012-04-21 19:37
一件不太顺意的事,过三十年也没有释然,没有道歉!


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