yamoli66 |
2012-03-12 22:17 |
『東京タワー』の翻訳(224)
Ⅷ(1) 前世紀末に人々が信じ恐れた予言は当たることもなく、ただ単純に、次々と日めくりがめくれるだけで、はるか未来であったはずの二十一世紀はやって来た。 その昔、人々の想像した二十一世紀の姿。それは大幅にはずれることもなく、今、我々の身近なものになるつつある。 コンピューター。テレビ電話。宇宙旅行。ロボット。 映画で観たそれぞれは、現実になった。しかし、ひとつだけ、昔の人が想像のできなかったこと。気付かなかったこと。 それは、すべてのものは進化の過程で小さくなってゆくということだった。 兵器並みの能力を持つコンピューターを描く時、フィルムの中、漫画の中ではいつもそれは家具のように大きくかたどられていたものだ。しかし、今はその程度のコンピューターでも、子供机の上に、コンパクトに並べられている。 それは実寸(じっすん)の問題ではなく、人々の心の中では偉大なるものはすべて大きく映っていたからなのだろう。 母親に手を引かれている子供が、その母親の身長など気にしたことがないように。 「たわむれに母を背負いてそのあまり軽さに泣きて三歩あゆまず」 石川啄木が目を潤(うる)ませて立ち止まったように、誰しもがかつて大きかったはずの母親の存在を、小さく感じてしまう瞬間がくる。 大きく、柔らかくて、暖かだったものが、ちっちゃく、かさついて、ひんやり映る時が来る。 それは、母親が老いたからでも、子供が成長したからでもない。きっとそれは、子供のために愛情を吐き出し続けて、風船のようにしぼんでしまった女の人の姿なのだ。 五月にある人は言った。 どれだけ親孝行をしてあげたとしても、いずれ、きっと後悔するでしょう。あぁ、あれも、これも、してあげればよかったこと。 見慣れないスピードでひとつひとつが働き始めた。電話帳のページをかたまりでバサリとめくるように、重苦しく働きながらも確実にある一点へと向かっているようだった。 オカンは、いつも入院する時にそうしたように小さなバッグに洗面道具と着替え、何冊かの本を入れて仕度(したく)を整えている。 しばらく混ぜることのできないぬか漬けの壷(つぼ)には、たくさんの塩をまいて保存(ほぞん)が利くようにしていた。 上世纪末,人们所相信的恐怖预言并没有实现,而也只是单纯地每天都翻阅着日历,本来遥远的二十一世纪却毫不犹豫地来到了。 过去人们所想像的二十一世纪的形态,其并没有多大的变化,现在逐步变成了我们身边的东西。 计算机、可视电话、宇宙旅行、机器人。 在电影中所看到的各种现象,在现实中实现了。但是,只有一件事,过去的人没有想像的、没有注意到的事情。 那就是所有的东西在其进化过程中逐渐向小的方向发展。 在描写具有和兵器能力相当的计算机的时候,在电影中、漫画中,总是表现出像家具那么大的东西。但是时至今日,那种类型的计算机也可以变成小型的,可以并排地放到孩子们的桌子上了。 那并不是实际尺寸问题,是在人们的心目中那么伟大的东西就本应该放大地表象出来。 就像被母亲拉着手的孩子那样,从来就不注意其母亲身高什么的。 “开玩笑式背着母亲,因为其太轻而哭泣却也走不了三步。” 石川啄木为了让眼睛湿润而停步在那里,谁也感觉到本应高大的母亲存在,让人瞬间感觉到是那样地变小了。 高大的、温柔的、热情的东西,却变小、不稳重、冰凉了。 那并不是因为母亲变老造成的也并不是孩子长大而造成的。可以肯定地说,那是为了不断地向孩子吐出爱情,母亲变成了像气球那样最终变瘪了。 在五月,有人这样说。 别管你多么尽心地孝顺,最终都会后悔的。好了,别这样、别那样,只要尽心做到就好。 以不能适应的速度,每一个每一个动作都开始行动了。就像电话本的页纸凝结在一起沉重地落地那样,尽管是不舒畅地运动着但确实在向一个方向前进。 母亲就像以前入院一样把洗脸用具、更换的衣服和几本书放进小手提包里面,一切准备就绪。 在近期不能再做腌菜的罐子里面存放了很多食盐,这样便于保存以后接着用。 |
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