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『洗澡(風呂)』--革命の洗礼を受ける中国の知識人たち

『洗澡』(三聯書店)(邦題『風呂』)  作者楊絳、1911年生まれ。作家、翻訳家。銭鐘書夫人。1935年より、夫に伴い、イギリス、フランスにて留学、帰国後、中学や大学で教鞭を執る。外国文学研究の傍ら翻訳や著作活動を精力的にこなし、代表作には1949年以降の国を挙げた政治運動を揶揄した小説『風呂』、『幹校六記』や翻訳作品『ドンキホーテ』などがある。 『囲城』(http://blogs.yahoo.co.jp/bao_bao_cj/17218242.html)の勢いで必ずといっていいほど楊絳を読み直します。『洗澡(風呂)』を読み返しました。 銭鐘書と読み比べてみると、さすが夫婦だけあって、ストーリーの運び方、文章の筆致、人間の深層心理に対する鋭い分析(これは二人揃って抜群)はよく似ています。ただ両者をくらべると、銭鐘書はかなりユーモアにこだわっているように見えて、相当趣向を凝らしている感がありました、古典教養の豊かさ深さからの自負心を、どうだ!と言わんばかりに前面的に出して、ははー参りましたと、こちらがひれ伏してしまうほど感心させられますけれど、しかし、楊絳はあくまでも控え目。銭鐘書のように言葉遊びはあまりしないし、深い教養が言葉の端々ににじみ出ることがあってもけっして真っ向から見せびらかすことはない。性格の違いがここまでももろに現れています。 知名度も評価も『囲城』が一段上かもしれませんが、文学価値を言うと、個人的には2冊は甲乙つけがたく永久保存したい双璧だと思います。 『囲城』と『洗澡』は時代を縦の軸にちょうど一本の線でつなぐことができる。海外留学を終え、激動の戦争時代を生きぬいた知識人たちが新中国を迎え、それぞれの理想を求めて、ようやく羽ばたこうとしたら、今度はまた別の形の、筆舌に尽くしがたく厳しい洗礼を受けなければならない。そうした共産党による中国解放を挟んだ歴史の激流と、それに揉まれて、戸惑ったり動揺したりする知識人の弱さ未熟さ、無防備と無力感を巧みに描いています。 『囲城』の登場人物方鴻漸、叶辛(木眉)、蘇小姐、李梅亭たちと、『洗澡』の登場人物姚宓、許彦成、麗琳、余楠、朱千里たちを新、旧の二つの時代を代表した群像として見れば、より理解が深まります。  もう一つ気づいたことがあります。昔「洗澡」を読んだとき、主人公の恋愛に特段感動を覚えることはありませんでしたが、いくらか齢を重ねたせいかあの切なくて奥ゆかしい二人の愛情にひどく心打たれました。 続いて手を伸ばすのは楊絳のエッセー。それを読む度にに新しいものを得た実感がします。 文章はもちろんいいけれど、彼女の人間性に心から感動し見習うべきだと思います。文革の過酷な経験をあれだけ他人事のように、冗談交じりで淡々と述べられるとは豊かな人生経験による達観と強い信念と環境に順応する柔軟性を持ち合わせているに違いない。抗日戦争で最愛の母や叔母を、文革中に妹と娘婿を亡くし、そして老境に入ってから一人娘に先立たれ、さらに長い人生をともに歩んできた伴侶銭鐘書と最後に死別する。それでも書き続けている彼女の、広くて深い懐はもはや悟りの境地に達しています。 「我和誰都不争、和誰争我都不屑」、楊絳がしたためたこの一文を、私も座右の銘にしています。 楊絳を読むと、しばしば幸田文と較べてしまうのですが、形が違うものの、芯の強さは変わらない気がしました。 作品を比較するときりがありませんが、文の文章は我が強い(時には無理を感じてしまうほど)のに対して、楊絳はあくまでも温厚、決して無理強いはしない。

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「囲城」-銭鐘書

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