『囲城』にまつわるエピソード
別の記事を書く予定でしたが、気が変わって再び銭鐘書の話になりました。 銭鐘書、字「黙存」。 高名な画伯且つエッセイスト黄永玉の話によると、文革中、もっぱら銃猟で一家の必要な蛋白源を確保していた画伯は、食事の席で銭に銃猟のことを訊ねると、躊躇もせずナプキンにずらっと50冊くらい、書籍のタイトルを書き並べ、関連内容の係るページ数まで正確に添え書きして渡したとのことでした。スーパーコンピューターのような記憶力の持ち主だったらしい。度重なる政治運動による浮き沈みをしっかり見通していたのか、そして生き延びるためには黙るしかないと思ったのか、時代が新中国に変わった後、ぴたりと小説を書かなくなったのはなんとももったいない話でした。 古典文学の研究に専念するも、知識人の下放(文革中に実施された政策の一つで、都会の知識人を農村に住まわせ、農作業に従事させられること)により、農村への移住を余儀なくされ、お湯一つ沸かせない、まるで役に立たないオヤジということで、農具の保管、菜園の番人、郵便配達の仕事を任されました。この頃の生活は楊絳のウイットに富んだ、しっとりとした文体の『幹校六記』によって明らかにされました。長くて暗いトンネルに放り出されて先の見えない中、嘗めた辛酸と屈辱は想像するに余りあるのに、その文章からは暗澹としたものをまったく感じることはありません。それどころか現実を淡々と受け入れ、それを楽しんでいるポジティブな生き方に大いに勇気付けられました。 時代が80年代末に入って、『囲城』は約40年ぶりに再び脚光を浴びるようになり、海外では死亡説まで流れていた銭鐘書の生存がようやく確認されたという経緯がありました。意外な事実に驚きそして喜んだ海外の中国文学の研究者から取材の依頼が殺到しましたが、ことごとく断られたとのことでした。謝絶の理由としてこれまた銭鐘書らしい名言が残っています。「玉子が美味しかったからと言って、それを生んだニワトリを見るまでもないでしょう。」 他人が見た銭鐘書は大抵気位が高そうで、近寄りがたくて、寡黙というイメージがありますが、楊絳の本を読んでいると、意外と子供っぽくて、茶目っ気たっぷりで、情の厚い学者バカそのものです。真の姿はやはり身内にしか見せなかったのでしょうね。 興味ある方には、出来ればぜひ一度この本を原文で読んでいただきたい。70年も前の本ですが、かび臭さをまったく感じさせないどころか、最近の小説より遥かにセンスがよくて、おしゃれなこの一冊を読むたびに舌を巻きました。けっして気宇壮大な内容ではありません。持て余した才能でちょっとふざけてみたかったのか、楊絳を笑わせたかったのか、この程度のきっかけではなかったかと思うほどあっさりした筋書きですが、しかしその魅力はなんと言っても言葉です。この本を読むと、銭鐘書はやはり天才だったと大いに納得させられます。一字一字珠玉の価値です。本物のユーモアって、こういうことなんでしょうね。なんでもないことをなんでもない口調で書いているのに、それを電車で読んでいたこちらはもう最初の一行から必死に笑いを噛み殺そうとした余り、、肩を震わせていました。のどを出かかった笑い声を我慢しすぎて肋骨が痛くなったのが珍しい経験でした。 この本で分かったことが二つありました。民国時代は今の新中国よりも社会秩序があったらしい、そして、当時の中国人(少なくても知識人階級)は今よりよほど精神的にも経済的にも恵まれた優雅な生活をしていたようです。だって、70年前の人たちがコーヒー豆を挽い

